人は皆、利己(エゴ)の塊と覚悟せよ

利己の構造

人は親切だ、優しい

幼稚園のとき、そう教わらなかっただろうか?

無垢な子供はそれを信じ大人になった。けれど実社会では出し抜かれることも、裏切られることもある。
子供の時に教わった性善説は本当だったのか?
そう思う人に是非、読んで欲しい。

人が利己に落ちてしまう理由

あなたが勉強していると、上から「ドンドンドン」とものすごい物音が響いてくる。そのとき湧く感情は「うるさいな~」であって、「なにか事情があるのかも」ではない。
自分の家の南側にある日、家が建ち始めた。狭い敷地ゆえ、日当たりは最悪。そのとき思うのは「この家さえなければ」であって、「ご近所さんができてよかった」ではない。

私たちは降りかかってくる不快に対し、まず最初に嫌悪や排除といった感情が働く。それは自己を守るための大切な機能。この機能があるから、我々は不快な環境を避けることができる。

だが、不快な環境を避けようとすれば、どうしたって我を通さねばならない。だから、利己に落ちてしまう。生き物としてはごく自然。
もし、まったくもって利己的でない生命体があるとすれば、そいつは身体を有していない。
身体があるということは、否が応でも五感を通して不快を感じざるを得ない。即ち、生きてるイコール利己的。

例外的動き

では、人はいつでも完全に利己的であるか、と言えば、そうでもない。
身体を有した我々は、快適さを求めて利己的であろうとするが、快適さを手に入れるには他者の協力が欠かせないという事実を持つ。
ひたすらに利己的であれば、協力を引き出すことは難しい。従って、より広く快適であることを求めて、目の前の不快さを受容することがある。例えば、よい待遇を得るために、上司の言い分を飲むとか。

また、物理的快適さと共に心の快適さを求める。心の快適さとは「認められる」こと。
余りあるお金をバックにやりたい放題やったとしても、心の中の穴を埋めることはできない。その穴をふさぐために、相手に尽くすという選択をして、一時の不快さを甘受することがある。

利己を超えるとき

だが、人間の真骨頂は他にある。
それは、
自分よりも優先したい他者が現れたとき、身命を賭してその人を守るという性質。

生命維持というルールを取っ払って、意思の力だけで誰かを守ろうとする力。すなわち「愛」。
我々を縛る利己を乗り越える「人を想う力」が全てに勝ったとき、我々は我々の底力を見る。

このときばかりは、利己の世界を超えることができる。

人の基本を理解する

つまり、基本人間は利己的。そして、協力や認められることが必要なために、一時利己を手放す。
そして愛する対象が出来た時、自らの利己を超える。
このような層構造になっている。

相手が信頼するに値するか、を判別するとき、どの層の厚みが充実しているかを見極めることが大事だ。
それにより、寄せる信頼の度合いを変えていく。
だが、忘れてはならないのは、基本的に人間は利己に支配されている、ということ。裏切るんじゃなくて、自分の利己を優先する性質だということ。

幼稚園のときに教わった「人は親切だ」は、残念ながら幻想。幼稚園児に冷たくすると周りから「認められなく」なるという理由から、たまたま優しく接してくれる人が多いだけです。

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