小学校のときにいた保健の先生(養護教諭)のような、ふらっと訪れると「どうしたの?」と出迎えてくれる場所が大人にもあったらいいのに、と思ったことはないだろうか?
大人だってふと迷ったり、誰かに話を聞いて欲しいときもある。
友達や同僚でいいんじゃない?と思うかも知れないが、黙って聞いてくれることは稀。基本的に与太話と捉えられて、真剣には聞いてもらえない。
悩みの深刻度を理解した上で話を聞かれる場が不足している。
だから大学に保健室をつくった学校がある。帝京短期大学。
1年でのべ2300人が訪れたそうだ。学生が1100人ということからも利用率の高さが見て取れる。
18歳から20歳の悩みまっただ中の子供達が、次々と訪れる。
じっくりと話を聴くと、普段の様子からは想像も出来ない過去を吐露する学生もいる。やはり真剣に聴いてみないと、その子の本当の姿は見えてこないのだ。
このような悩みを持つのは彼らが若いからではない。50歳であろうが60歳であろうが、誰かに聴いてもらい、”もういっか” と思えるまで出し尽くさないと、悩みは消えないのだと思う。
身近な相手が聴き手として作用する時代は終わった。
教諭の「親は最後の砦ではなく、非常に緊張する相手だ」という指摘にもうそろそろ気づかなくてはならない。
関わった時間の長さや遺伝的繋がりは、安らかさを与えることとは無関係。
下手したら「私(親)のせいだといいたいの?」と余計な緊張を強いられることさえある。
世の中に養護教諭のような存在が拡がり、一人で悩まなくていいという安心感が社会に行き渡ることを願わずにはいられない。